イベント情報

西村捨三翁銅像前献花式を実施します

日 時
平成28年7月15日(金) 9:30~

会  場
天保山公園西村捨三銅像前


西村捨三

 初代築港事務所長として築港実現に絶大な功績があった西村捨三は天保14年 (1843)、彦根藩作事奉行西村又治郎の三男として生まれた。次男を失って間もない父は喜んで得三郎と命名した。得三郎は幼くして体格すぐれ、10歳で伽小僧として 城中に出仕、15歳で藩校弘道館に学んで最上級の成績をとり、俊英とうわさされた。

 藩主井伊直弼が桜田門外で暗殺された翌年、18歳の得三郎に江戸留学という名誉の藩命が下ったが、粗暴の振舞いでもあったのか、折悪しく父から勘当を受けるばかりの状態であった。父は出立に当たって勘当を許す代わりに捨三と改名するよういい渡し、以後の戒めとした。

 明治9年に大久保利通の推挙を得て内務省に出仕、間もなく西南の役に参加。その 後は栄進を重ね、19年土木局長となり、全国の河川を巡回、難工事の木曾川改修を 軌道に乗せた。大阪府知事に任命された明治22年、淀川の洪水でコレラが大流行したことから上水道の敷設を迫られ、市公債の発行と国庫補助の獲得に奮闘して成功させた。築港については土木局長時代、オランダ人技工師デ・レーケから建設計画 の報告を受けて着工の必要を感じ、当時の建野郷三知事に幹旋を申し出ている。

 明治30年、広く政財界の信望を得て初代築港事務所長に推された西村は資金集めに奔走、工事全般を指揮したが、病を得て36年2月に辞任、41年4月故郷の彦根で死去した。このとき文人西村天囚が朝日新聞の社説で「衣冠の侠客」とたたえたように熱誠侠気の人で、京都遷都千百年祭の寄付金集めを買って出て千年も前の衣冠束帯姿で各地を行脚したり、採石船「第五犬島丸」が暴風のため沈没して23人の命が失われたときは自作の謡曲を手向けて冥福を祈るなど、その生涯は多くのエピソードに彩られている。